2022年、79歳で亡くなったアントニオ猪木。今なお熱烈なファンを擁する猪木だが、1983年ハルク・ホーガンとの「第1回IWGP決勝戦」で、プロレス界を揺るがす「大事件」を起こしている。「猪木舌出し失神事件」――プロレスファンの間で、いまなお語り継がれる、あまりに有名な事件だ。だが、その経緯は40年以上経ったいまも謎に包まれている。一体、あの時本当は何が起こっていたのか。事の発端は、6月2日夜のことだった――。《NumberWebノンフィクション全3回の1回目/2回目、3回目を読む》
<1983(昭和58)年6月3日、午前2時――。車体に「新日本プロレスリング」の社名が入った営業用ワゴンのハンドルを握りしめ、深夜の山手通りを渋谷方面に向かって南下する。後部座席には、数時間前まで蔵前国技館のリングに立っていた兄貴が、シートに身を沈めている。>
今年2月に上梓された猪木啓介氏(77歳)の著書『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)のプロローグは、そんな書き出しで始まる。
「プロレス史上最大の謎」とも言われるアントニオ猪木の「舌出し失神事件」。同書には、猪木が衝撃的なKO負けを喫した当日夜のできごとが克明に記されている。
猪木実弟が語った40年前の「真実」
「私はこれまで、あの日に起きたことの詳細を他人に話したことはありませんでした」
そう語るのはアントニオ猪木の実弟で、当時新日本プロレスの営業部員だった猪木啓介氏である。
「ただ、兄貴が他界してもう2年あまりの月日が流れました。あの事件については事実と異なる話もいろいろ伝わっていると聞き、私が直接見聞きしたことを、記録に残しておいたほうが良いのかもしれないという心境に至ったのです」
このあまりに有名な試合については、後年になってさまざまな憶測が飛び交った。
「失神は猪木の演技だった」という説が有力とされたが、もしそうであったとしても、なぜそれを実行しなければならなかったのか。生前の猪木がそれを語ったことはなく、いまも明確な結論は出ていない。
プロレス史に残るその「事件」が起きたのは、いまから42年前の1983年6月2日、「第1回IWGP決勝戦」でのことだった。
猪木がハルク・ホーガンにKO負けを喫したこの試合は、プロレス界の伝説として語り継がれており、日刊スポーツによる「アントニオ猪木のベストバウト」アンケート(2022年10月)で2位に食い込んだことでも分かるように、猪木ファンの記憶に残る衝撃的な試合だったことは間違いない。
「真の世界最強を決める」というコンセプトのもと、当時の新日本プロレスが3年の準備期間を経て創設したベルト、それが「IWGP」(インターナショナル・レスリング・グランプリ)だった。
予選を勝ち抜いたのは、新日本のエースであった猪木と全盛期の“超人”ハルク・ホーガン。蔵前国技館におけるシリーズ最終戦で、両雄は栄えある「初代IWGP王者」の座を賭け激突した。
「猪木の勝利を100%、信じていました」
そう語るのは事件当日、超満員の会場に足を運んだという元経産官僚で慶応大学大学院教授の岸博幸氏(62歳)だ。
一橋大学に通う大学生だった岸氏は熱烈な「猪木信者」で、猪木の完全勝利を見届けるべく、友人とともに蔵前国技館に駆け付けたという。
「エプロンでホーガンのアックス・ボンバーを受けた猪木が、なかなか起き上がってこない。そのうちリング上でホーガンが猪木の様子を心配するようなそぶりを見せ始めたのが分かり、観客がザワめき始めた。KO負けした衝撃もさることながら、あのときの場内の異様な空気感は、いまでもはっきりと覚えています」(岸氏)
「猪木のための」王座だったはずが…
IWGPのベルトは、当時の新日本プロレスが社運をかけた、いわば「猪木の、猪木による、猪木のための」王座だった。
ファンだけではない。猪木のマネージャーであった新間寿氏(新日本プロレス営業本部長=当時)、団体ナンバー2の坂口征二、レフェリーのミスター高橋、試合を中継したテレビ朝日……すべての関係者が猪木の勝利を信じて疑わなかった。
だが、その「栄光のシナリオ」は暗転する。ホーガンの斧爆弾を受けた猪木は舌を出したまま動かず「失神」。悲鳴に近いファンの声を受け、セコンドが無理やり猪木の体をリング内に押し込んだものの、試合続行は不可能。21分27秒、KO負けを喫した猪木は直ちに救急車で新宿の東京医科大学病院に搬送された。
啓介氏の証言。
「私は身内ということで救急隊員に促され、救急車に乗りました。同乗したのは私のほかに富家孝リングドクター、付き人だった髙田伸彦(現・延彦)選手だったと思います」
当時の東京スポーツ報道から、時系列で状況を追ってみよう。
<6月2日>
〇21:12 ホーガンのKO勝利がコールされる。
〇21:16 救急車が蔵前国技館に到着。猪木を乗せ、児玉三磨コミッションドクターが理事をつとめる新宿の東京医科大学病院へ向かう。
〇21:45 救急車が東京医大病院に到着。「猪木倒れる」の一報を聞きつけた一般メディア、ワイドショーを含む報道陣が病院に集まり出す。
〇22:05 「意識はある」と児玉ドクターが報道陣に説明。
〇22:15 レントゲン室に移動。富家ドクターが「一過性脳しんとう」との見解を示す。
〇22:32 倍賞美津子夫人が病院に到着。新宿署の刑事2人が児玉ドクターに事件性の確認。
〇23:08 新間寿・新日本プロレス営業本部長が病院に到着。
〇23:16 精密検査を開始。美津子夫人が「帰りたい?」と声をかけるも猪木は無言。
〇23:26 CTスキャンを実施。
〇23:55 「CTスキャンに異常なし」と児玉ドクターが説明。
<以下6月3日>
〇00:38 検査室から病棟6階の1603号室へ移動。
〇00:45 病室のドアが閉められ、外には髙田選手を残すのみとなる。
記者の姿が消え…本当のドラマが始まる
原稿の締め切り時間を過ぎ、「猪木の生命に別状なし」というドクターの説明を聞いた朝刊紙の記者たちは1人、また1人と引き上げていった。
だが、「本当のドラマ」はここから始まることになる。
「検査室から病室に移動する際、付き添っていた私に対し、兄貴が小さな声で“家に帰る”と言ったのです。私は驚いてもう一度真意を確認しましたが、やはり“帰りたい”と言う。絶対安静が必要な状況で家に帰るのは無理だろうと思いましたが、一応、ドクターに聞いてみることにしたのです」
啓介氏は児玉ドクターにこう切り出した。
「先生、アントニオが今日は家に帰りたいと言っています。可能でしょうか」
すると意外にも、児玉ドクターはOKを出した。
「いいでしょう。ただ自宅では安静にしてください。検査では大きな異常がありませんでしたが、絶対に無理をしないように。何かあればすぐに連絡をください」
極秘に行われた猪木の「病院脱出」
ここから啓介氏はアントニオ猪木、美津子夫人の「極秘脱出」を模索する。
「他の営業部員が病院の駐車場に残しておいてくれた新日本プロレスの営業車を病院の裏口に横付けしました。現場には、首からカメラを下げた記者がまだ数人残っていましたが、彼らが帰るのを待つわけにもいかなかった。病院着のままの兄貴と美津子さんをワゴン車の後部座席に押し込み、代官山の自宅マンションに向かったのです」
深夜2時、病院を抜け出した猪木。だが、啓介氏の運転する営業用ワゴンを追跡する1台のクルマがあった。
「報道関係者のクルマだったと思います。兄貴も、私が何度もバックミラーを気にしていたので、後をつけられていることに気づいていました。ブラジルで育った私は、悪名高い現地の暴走タクシーと長年張り合ってきましたから、運転には少々自信があった。信号の変わり目でクルマを急発進させ、追っ手を簡単に振り切ったことを覚えています」
衝撃のKO劇から5時間後。「絶対安静」のはずのアントニオ猪木は、密かに自宅に戻っていた。
一夜明けた3日朝。通常はプロレスを扱うことのない全国紙の社会面にも「救急車騒ぎ」の記事が小さく掲載されていた。しかし、すでに退院しているはずの猪木をめぐり、ここから「奇妙な報道」が展開されることになる。